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「よっ、と」
電脳空間に降りれば、ゲートも何も素っ飛ばして真っ直ぐにメインホールに降り立つ。もうそれはオラトリオにとって半ば以上習慣のようなものだ。間違えよう筈もないのだけれど、律儀に座標を確認して彼は顔をあげた。
常ならば其処で仕事をしているはずの相棒にただいまと云おうとして、オラトリオは眉をひそめた。
オラクルがいない。上に、室内の様子が普段と違う。

家具の一切が消え寒々しいほどがらんとした室内に、壁際で本棚の代わりのように設えられた古めかしい街燈が心細げに白い光を投げかけている。ひいやりと鋭い冷気。基準より高く設定され、ぼんやりとしか見取れない天井から降り注ぐのは――「雨?」
サアサアと柔らかな音が辺りを満たしている。よく見れば街燈の灯りに幽かに銀の光を返す絹のような筋で周囲は仄白くけぶっている。カーペットを剥がれたむきだしの床は石造りで、所々に薄く水溜りが出来ていた。水滴が砕けるその瞬間まで詳細に造り込まれたその光景は、けれど何処か奇妙な。
それでも、そうか雨かとオラトリオは呟いた。
遠く聞こえる雨音と共に柔らかに響く小さな小さな歌声はオラクルの声。何処か懐かしい旋律で、嬉しげに紡がれるそれは、果たして聴覚を通して伝わってくるものなのかどうか。
悪くないなと眼を細めたところで、

――ぱしゃん――

傍らに派手な水音を立てて黒い影が降り立った。
「よう、やっとお出ましかオラクル」
雑音のローブを脱ぎ、黒いシルクハットと蝙蝠傘を手にした黒づくめの格好でオラクルはくすくすと笑った。まるで悪戯に成功した子供のような顔だ。
「お帰りオラトリオ。待ってたんだよ」
どうだ、上手く出来ているかと眼をきらきらさせて尋ねる様子が余りにも幼くてとうとうオラトリオは吹き出した。
一瞬きょとんと眼を瞬かせたオラクルも、一緒に笑い出してしまう。
笑いながらオラクルにただいまを云ってやって、そうさなぁとオラトリオは続けた。
「ちぃーっと足りねぇかな?ま、悪くはねぇけどよ」
眼を閉じてオラクルの組んだ雨のデータを読み込む。オラクルの雨に足りないのは。
「うわ!」
顔や手や首筋、外気に直に晒された肌に冷たい水滴が当るのを感じてオラクルは悲鳴をあげた。身体を包むアンダーローブにも、ぽつぽつと水が沁みていく。
掌でぐいと頬についた雨を拭って、今度はへぇと感心したような声をあげた。
次いでその様をじっと見ていたオラトリオに、にっこりと笑いかけてみせる。
「うん、悪くないね」
しっとりと露を含み始めた髪を揺らしてありがとうと言葉を重ねるのには応えず、照れ隠しのように「それ」とオラトリオは蝙蝠傘を指差した。
「『雨に唄えば』か?」
「うん?そうそう。信彦が今日は久しぶりに雨だったってメールで喜んでてね」
興味が出たんだ、と。けろりと言い放つ。

完璧に再現された風景。降り注ぐ水の音。下げられた気温。
雨の感触だけは取り残されたままに。

温かい紅茶を入れることの出来るオラクルは、水の感触もその温度も識っている。設定を変えたデータを組み込んで疾らせてみれば、プログラムはその通り動いただろう。賢者がそうしなかったのは、純粋に雨を体感したことがなかったからなのか、其処に思いが及ばなかったのか―。
オラトリオの考えなど他所に、オラクルはシルクハットと傘を手に、似合うかと幾つかモデルのようにポーズをとってみせて遊んでいる。
ああはいはい似合う似合う、とやる気なく拍手を返せば、満足したように笑いながらオラクルは頭上に傘を広げた。


 I'm singin' in the rain
   Just singin' in the rain(雨に唄えば)

 What a glorious feelin'
        I'm happy again(弾む心 よみがえる幸せ)

 I'm laughin' at clouds
       So dark up above(黒い雲に笑いかければ)

 The sun's in my heart
     And I'm redy for love(心には太陽 愛が芽生える)


軽いステップで少しオラトリオから離れ、部屋の真ん中でくるくると傘を廻してオラクルが歌う。
歌に合わせて、霧雨のようだった雨脚も強くなった。ばらばらと水溜りや傘を叩く雨の音が、如何にも楽しげに踊るように響く。
何だか嬉しくなって、少し重くなったコートの袂に赤いトルコ帽を仕舞いこんで、オラトリオもその傘に入れろとばかりにオラクルの傍に駆け寄った。
笑いながら傘を廻し、時々一つだけの傘を取り合いながら、水溜りに踏み込んでばしゃばしゃと水を跳ね飛ばして、傘なんか意味がないくらいびしょ濡れになって二人で唄った。


 Let the stormy clouds chase
    Everyone from the place(嵐の雲よ 人を追い払え)

 Come on with the rain
   I've a smile on my face(雨よ降れ 笑顔で受け止めよう)

 I'll walk down the lane
    With a happy refrain(幸せを噛み締めて歩こう)

 Just singin'
      Singin' in the rain(雨に唄いながら)



   Dancin' in the rain(雨に踊ろう)
          I'm happy again(よみがえる幸せ)

 I'm singin'
       And dancin' in the rain(雨に唄い踊る)




    I'm dancin'
      And singin'
         In the rain…








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まいふぇいばりっとむーびー「雨に唄えば」より。
とても、幸せな歌だと思うのです。

いや昨夜雨が降ったもんですからつい、ね。寒いわ冷たいわいつも自転車で行くディスカウントストアは遠いわ…唄いたくなりました(笑)。ちなみに文章中の歌詞は、DVDを流しながら書き取ったもの。ワーナー・ホーム・ビデオから発売されていて、字幕翻訳は金丸美南子さんだそうです。まっずいかなぁ;