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間近に迫った締め切りに、オラトリオがオラクルの家に泊り込む。それは最早ある種の恒例の行事みたいなものだ。
リビングで二人向かい合って、無言でパソコンを叩くのもいつものこと。
詰ってしまった筆運びに、オラトリオは溜息をついて手を止めた。気に入りのマグに半分残ったコーヒーはもう冷たい。
胸ポケットから煙草を取り出すと、ちらと目線をあげたオラクルがそれを見てにっこりと笑った。
白い指先がつい、と持ち上げられ、夜空を指す。
「オラトリオ、あっち」
要するに、煙草を吸うならベランダへ行け、という意味である。長い付き合いのこと、室内での喫煙をオラクルが嫌がることくらい先から承知だ(煙草の煙が嫌いなのではなく、その残り香が嫌いなのだとは本人の談だ)。
風にでも当りたい気分でもあるし、言われずとも外へ出る気でいた。へいへい、といかにも適当な返事を返してオラトリオは立ち上がった。




都会の夜は明るい。
マンションの常夜灯やビルの最上階を示す赤いライト。それぞれの家庭の温もりを示す電灯。遠くを走る電車。行過ぎる車やバイク。
色々な灯りが重なって、あちこちできらきらと輝いている。
見慣れたこの光景が、オラトリオは余り好きではなく、そして嫌いでもない。
人の燈す灯りを美しいと思う気持ちと、ヒトの穢れを厭う気持ち。それらは相反しながらも混然としていて、どうにも複雑で明確にはならない。もしかしたら、意識した瞬間に苦笑するしかないようなそれらを、どうにかして紐解き、体系化して理屈付けようとするから自分は文字を綴り、からりと笑いとばすからオラクルは絵描きであるのかもしれないと、ふと思った。思いながら、これは相当に煮詰まっているらしいと自嘲する。埒もないことだ。
見上げた夜空は珍しく綺麗な濃紺をしていた。雲ひとつなく、星ひとつない空。白銀の月だけが輝く透明な夜空。
この街にしてはいい夜だ。桃色がかった都会の夜空はあまり見ていたいものではないから。
長く細く吐き出した煙は、夜に滲んですぐに消えた。


カラリ、と軽い音を立てて窓が開く。
次いで、オラトリオ、と呼びかける声が広い背に投げかけられた。
振り向くと、両手にそれぞれのマグカップを持ったオラクルが片方のそれをほらと差し出したところだった。受け取ったそれには、今度はゆらゆらと湯気の昇る紅茶がたっぷりと満たされていて、あたたかくて嬉しくなる。
「何が見える?」
オラクルの問いかけに、そうさなぁとオラトリオは応えた。
二人並んで、一口二口と熱い紅茶を啜る。
「夜、かな」
相変わらず馬鹿だねぇとオラクルが笑って、性分だよとオラトリオも笑った。
短くなった煙草を灰皿で揉み消して、さてもう1本、と胸ポケットから箱を取り出す。と、また一際深くオラクルがにっこりと笑った。
おや、とオラトリオが眉を上げる。何処に持っていたものか、オラクルは取り出したマッチの箱を玩ぶようにしゃかしゃかと揺らした。
煙草の残り香が好きでないオラクルは、決して煙草自体が駄目なわけではない。
その証拠に―――
「1本頂戴」
返事も聞かずにオラトリオの手から箱を取り上げ、そして1本を銜える。ちっと軽い音を立てさせてマッチをすると、オラクルはその火で煙草を点けた。
燐の燃える匂いがぱっと広がって、そして夜気に流れていく。
オラクルが時折煙草を吸うことを知っているのは、今のところオラトリオだけだ。実際のところ何度目にしても意外に映るその光景は、きっと余人には想像さえつかないことだろう。そのことをどう解釈すればいいのか、どんな想いを抱けばいいのか、未だオラトリオには判断がつけられないでいる。そもそも、意図があるのかどうかさえ分からないというのに。


細い白い指先。細い白いシガー。
シガーを挟んで僅かに開いた薄い唇。
眼を細め、火の上に手をかざして軽く俯くオラクルの仕草。


同じ動作を自分もしているはずなのに、こいつがやると妙に艶っぽくて困るなぁ等と、オラトリオがぼんやりとそんなことを考えていると、問いかけるようにオラクルが目線をあげる。
じっと見詰めてしまっていたことに気付いて、オラトリオは努めてなんでもない風を装って視線を外した。何となく気まずくて、声に出しては、オラクルが何も言わなかったことに救われる。
眼をそらしたまま、オラトリオが云う。
「止めないのか」
「お前が禁煙したら、止めるさ」
「お前ね…」
「頑張りなよ、オラトリオ。私は自分じゃ絶対買わないからさ」
もしかしてコイツは自分に禁煙させるために思い出したように煙草吸ったりするんじゃないかと疑いの眼差しを向けると、まるでその考えを読んだようにオラクルがまた笑った。
「嫌なこと考えるんじゃないよ」

――お前の傍に居たいから、くらいは言ってあげてもいいんだから。

本当に冗談のようにいつもと変わらない軽口のように、まるで明日も天気がいいと嬉しいね、なんて適当な話をするのと同じ口調で。
あまりにも簡単なことのように、オラクルが云うから。
咄嗟にどう返していいものか分からず、オラトリオは言葉に詰る。
その様子も、自分の言葉さえも意に介した様子もなく、オラクルは煙草を銜えたまま新しいマッチに火を点した。
穏やかな横顔が揺らめくオレンジの炎を見守る。細い芯を踊るように舐める炎が、オラクルの指を焦がし、そろそろ危ないのじゃないか、とオラトリオが不安になるくらいになって漸くオラクルは手首を翻し火を消した。
「昔はライターなんてなかったから、皆マッチを使ってたんだよ」
オラクルは炎そのものを楽しむけれど、オラトリオのように頻繁に火を使うヘビースモーカーにはマッチは向かない。
「…燐の燃える匂いがすきなんだ」
眼を伏せ、囁くように告げるともなしにオラクルは呟いた。声が何処か寂しげに響く。
長い睫毛が白い頬に影を落とす様が儚く見えて、オラトリオは戸惑った。
言葉自体は、オラトリオにとっては何度か聞いたことのあるものだ。綺麗な箱のマッチを見かけると、ついオラクルの土産にと手にとってしまう程に。
「…オラク、」
呼びかける言葉を、最後まで云うことは出来なかった。
夜空を向いていたオラクルの顔が、くるりとこちらに向けられる。開かれた眼には詐欺かというほどに先ほど漂わせた哀愁は欠片も見当たらない。どころか、ひどく生真面目な色を浮かべている。
「さて、じゃあ私はお風呂に入って寝るから。私は一段落ついたけど、お前はまだなんだろ?程ほどにして寝ろよ」
オラトリオの携帯灰皿に煙草を捻じ伏せ、きょうはちょっと肩が凝ったなぁと腕を廻しながらオラクルはベランダを去った。
その後姿を見送って、オラトリオは改めて煙草を口につけ、すぅ、と深く吸い込む。溜息に混ぜて煙をゆっくりと吐き出した。
何だか今日はやけにしみるなぁ、と思った。思いながら、口元が苦笑を刻むのを自覚する。
「…何だか最近負けっぱなしのような気がする」

そりゃあ、惚れたほうが負けとは言うけれど。

もしかしたら、愛しすぎているのかもしれない。
くつくつと笑いながら、オラトリオはその煙を吸い込んだ。







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知っているのは夜空ばかりの、そんな小話。

体が弱くてついでに気管支も弱い、というオラクルは見たことありますが、そういえば煙草を吸うオラクルって見たことない…と思って書いたお話。格好いいオラクルに憧れつつ、私が書くとやけに性格が悪くなって困ります。性格が悪くないオラクルは途端に乙女になるしなぁ(遠)。
ちなみにベランダに出るときには、多分両手のふさがったオラクルは窓を足で開けたんだろうと思います。…それだけでも行儀の悪さが光りますね、うちのクルさん。