何枚も何枚もキャンバスを塗り潰して倒れるように眠り、少し水を飲んでまた描いて眠った。時々食べ物を摂り、その合間に男に抱かれた。そのあとも死んだように眠り、目覚めればまた描いた。
それがどれほどの間続いたのかオラクルにはもう分からない。
身体が疲弊して、それ以上に心が疲弊した。何度も何度も何度も色をぶつけて汚して切り裂いて滅茶苦茶にして、どれだけそうしてもやっぱり疲弊していくのを止められなかった。
助けて欲しいと、誰にも云えなかった。
叫ぶ代わりに、また絵を描いた。誰にも見せない絵を描いた。
絵にすらならない絵を描いた。かいてかいて描き続けた。
耳鳴りがする。
それは音として言葉として届く前に、千々に乱れて雑音になる。
ああ、これは、とてもよく知った声だ。
記憶の底から、夜の沼から現れる魔物のように、黒い粘性を伴って浮かび上がろうとする其れは。
ああ、これはオラトリオの声だ。
聞きたくなんてなかった。
オラクルは耳を塞ぐ。
やめてやめてやめて。
悲鳴を上げて声を打ち消そうとして、けれど、咽喉は軋むばかりで擦れた吐息しか許してはくれなかった。
やめてやめてやめて。
昨夜言えなかった、その前もその前もその前も、言いたくてでも言えなかった言葉が、今更のように殻を食い破ろうと暴れだす。
物理的な圧迫感を伴って、呼吸さえ止めてしまおうとする。
苦しさに喘いで、ようやくオラクルは声を取り戻した。
「もう、厭だ」
けれどそれは、誰の耳にも届いてはくれなかった。
どんなに傷つけられても血を流さなかった心が、今いっせいにその傷の存在を主張している。
横たえられた寝台から起き上がると目眩がして、けれど抑えきれない吐き気に壁に縋るようにして洗面所に辿り着く。痛みは遠く、あまり感じなかった。ただ身にまとう何もかもが重い。意識にまとう身が重い。重くて重くて、何も考えられないほど重い。
胆汁の混じった黄色い胃液をどうにか吐いて、それでも嘔気は収まらなかった。
口腔に残るどうしようもない不快さと純粋な渇きを覚えて、身体を引き摺るようにしてキッチンへ行く。
水道の水を直にグラスに受けて、口をすすいで飲もうとしたけれど。強烈な拒絶感に襲われ、それは結局咽喉を通らず流しへと吐き出してしまった。
口に含んだ水を出してもしばらく咽喉が収縮して吐こうとしたようだけれど、先から空っぽの胃からはもう何も出てきはしない。無遠慮な嫌悪が身を苛んだ。
むせるように幾つかの咳をする。ようやく発作のようなそれは収まった。
息苦しさに涙が滲む。あまりにも酷い疲労に力の入らない手から滑りグラスが落ちた。それが割れる音は、オラクルには聞こえない。
もういい。もういい、もういいから、終わりにしたい。
もういい、もういい、もういいんだと。
何が、と主語も明確にならぬままに繰り返して、ずるずると崩れるように床に膝を付いた。だらりと垂れ下がった手の指に、何か鋭いものが触れる。透明なきらめきが霞んだ視界を掠めた。
オラクルの部屋の戸口で、オラトリオは佇んでいた。
クオータから聞かされた話が、頭の中で何度も何度もぐるぐると廻る。オラクルにあわせる顔なぞあるものかと思いながらも、立ち去ることが出来ない。
逡巡を繰り返しながら、それでも。
逃げることは出来ないと思った。
彼の軽蔑の目線でも、どんな罵倒でも受けよう。ここを訪れることはもうないかもしれない。オラトリオが姿をみせることは彼を傷つけるかもしれないし、嫌われてしまうかも―――否。もう、どれもこれも遅いのだ。
取り返しの付かないことをした。それこそ詫びようもないことを。
何を云おうと、オラトリオの自己満足。
関係の修復など、むしが良すぎる。何も期待してはいけない。
しかし――此処で逃げてしまっては、二度と詫びる機会すら与えられることはないだろう。己の抱いてきた気持ちを打ち明ける機会も。
意を決して、オラトリオはそのドアを叩く。
返事のないだろうことなど、承知。知らせだけのつもりで幾度か拳をぶつけ、これが最後だろうと合鍵を使う。
そうして、オラトリオが見たのは。
意識を取り戻したとき、彼は何も覚えていなかった。
ここ2月ほどの記憶を、一切なくしていた。仕事のことすら忘れていて、もう描きあげて疾うにクオータに渡してしまった作品の心配すらしたし、オラトリオの〆切が近くはなかったかと尋ねたりした。
どうもクオータと関わりを持つ1週間ほど前から記憶がないらしかった。
身体をすっかり弱らせて未だ顔色が悪いことと、手首に傷があること以外は、オラクルは全く以前と同じに見えた。
だが、無論それだけで済むはずもない。
躊躇い傷こそないものの、割れたガラスで切られた傷口は、醜く引き攣れて大きな痕を残していた。
そうして、誰かに触れらようとすると、医師や看護師にさえ、身を竦ませる。
大人の男性は部屋に入ってきただけでも顔を青褪めさせる。偶々医師は女性であったが、シグナルに対してさえ顔を強張らせた。
オラクルのベッドの横で、オラトリオは必ず膝を付いた。
彼が嫌だと云えばすぐに出て行って二度と訪れない気持ちで。目線を低くし、オラクルに影が被さらないように注意する。
よくわからないけどごめんね、とオラクルは囁く。それでも、オラトリオが立ち上がるときには必ず眼を閉じた。
また来る、と病室の入り口で呼びかけるまで眼を開けることのないオラクルに、待ってるよと応えられるまで、断罪を待つ囚人のような気持ちなのだ。
けれど、オラトリオにしてみればそれでもよく治ったものだと思えてくる。
彼は生きている。それだけでも、僥倖のようなものだ。
ぐずぐずに崩れた肉の切り口を見た。
血溜まりに倒れた身体、ゆっくりと血を染み込ませて紅く染まる服。
抑えてもその温かい体液の流出は止まらず、命が流れ落ちていくのをはっきりと感じた。
…死んでしまうと、思った。
事実、オラクルは死んでしまってもおかしくはなかった。
リストカットで死ぬことは少ないというけれども、それでも死者は皆無ではない。
余力を持たなかったオラクルが自分につけた傷はそれほど深いものではなかったけれど、ほとんど休養も食事も摂っていなかったオラクルの身体には、致死性のある出血だった。
目に見える傷は強い絶望を示しはするけれど、より一層彼の命を脅かしたのはもっとずっと緩慢で慢性的な自傷と暴力であったのだ。
強い貧血をおこしていた薄い血はなかなか止まらず、治癒力を失った身体は傷を塞ぐことができず。クオータが飲ませた痛み止めにも、血液の抗凝固作用のあるものだったのも事態を悪くした。
最悪の事態は、十分にあり得た。
そのときのことをオラトリオはほとんど覚えていない。否、正確には、オラクルの青褪めた顔と閉じた瞼、頬に落ちる陰や、規則的にぱたぱたと落ちる点滴、巻かれた包帯に滲んだ真紅の血、あなたも少し休みなさいという誰かの言葉――そういった断片的なもののことしか覚えていない。
横たわるその人の手を握り締めたかったけれど、触れてよいものかどうかすら分からなかった。己の手を膝の上で固く握り締め、ただひたすらにオラクルを見詰め続けた。
オラクルが意識を取り戻してから、オラトリオは入院の荷物を取りに彼の部屋に入った。
――愕然とした。
いつも居心地良く整えられていた部屋が、何とはなしに空気が違う。主がいないという、そのことを抜きにしても――荒れている。
何故気付かなかったのか。
こうなる直前にも一度、この部屋に入った。そのときは部屋の様子に気を配るどころではなかったけれど、それでも今にして思えば気付くべきだったのだ。
会ったこともある。食事に行ってもいつもより食の細いことや覇気のないことに気付いてはいたけれど、彼は大丈夫だからといつも気丈に笑っていた。もっともっとたくさん家に誘って、一緒にいて、気遣ってやればよかったのに、と今更ながらに後悔が襲う。
けれど本当に悔しさに切れるほど唇を咬んだのは、「それ」を見てからだった。
放り投げられたように床に散らばった何枚ものキャンバス。抽象画ともつかないそれは、見たことも無い激しい色使いで描かれていた。
絵筆を叩きつけたあとのあるものや、掌を擦りつけたあとのあるものはまだいい。無数の絵とも呼べぬそれらの中には、ナイフで無残に切り裂かれたものまでもある。
――彼の悲鳴が聞こえてくる。
姉にだけは話した。
「たとえ法で裁けずとも、私はお前を許さない」
きっと射抜くような瞳で睨みあげて言い放つその人に、それでいいですよと応えた。厳しいけれど。何て優しい女性だろうかと思った。
それだけのやり取りだった。
あの、虚ろな瞳を、血に沈んだ姿を、覚えているから。
光の中で笑う彼は優しい。
傷ついたことも、傷つけられたことも、忘れて。
ただひたすらに無邪気に笑う。
だから自分は、その傷に少しも触れられないでいる。
その、赦しを失うのが怖いから。
オラクルは何も覚えてはいない。
昔のままに、ずっとずっと以前のままに。
無垢で、純粋な彼のままに。
陰のない笑顔に、痛みを覚えないわけではないけれど。
手に入れたと思った。もう自分のものだと、そうクオータは思ったのだ。
…こんな結果になるなど、思ってもみなかった。
彼が少しずつ壊れていく様を見詰めて、喜びに唇を歪めていた自分こそが狂っていたのだろう。
何よりも誰よりも大切であった人の血でもってしか覚めることのなかった狂気。
はじめは深く自身の存在を刻み込み、忘れられなくしてやろうと。彼に忘れないで欲しいと思ったことだった。ただの他人でなく、どんな形でもいいから、彼のなかの特別の地位が欲しかったのだ。
恋したはずの微笑が、見られなくなったのは自業自得。しかしそれにすら気付かない妄執を抱えた。
それすらどうでもよくなるほどの欲望だったのだ。
どうしても自分は欲しかったのだ。
手に入れたと、思ったのに。
彼は全てを忘れ。
自分は全てを失った。
何もかも消えてしまったかのように彼が笑うけれど。
それでも過去は消えないけれど。
あの凍りつくような恐怖に比べたら。
失ってしまうくらいなら。
何も手に入らなければ。
「私は」
クオータが云う。
「私は、あの人が欲しかったけど」
「亡くしてしまうくらいなら」
「それなら、手に入らなくて、いい」
全く同感だよとオラトリオは思ったけれど、ただそうかとしか云わなかった。
口に出す必要性も感じなかった。
相変わらず彼は編集の仕事をしているけど、以前に比べ嫌味の数が減った。そういう変化は自分も同じかもしれない。
仲裁してくれる者があるからこその喧嘩をしてきたということだろうし、張り合う要がもう意味を持たない。
どちらももう手に入れられない。
そのうちにクオータは部署を変わるのだという。
きっと、オラクルが復帰してくる頃には。
後輩には、あなたたちの手綱の取り方をようく申し送っておきますからねと冗談めかして云うのに、オラトリオは眉をひそめた。
「逃げるようで申し訳ありませんが」
「これ以上、自分をあなたたちの側に置いておきたいと、私が思わないのです」
クオータを憎悪する気持ちが、全くなかったわけではなかったが、ある意味で彼とオラトリオは共犯だった。オラクルを追い詰め、止めを刺した。
「かくのをやめないで下さい」
どちらにともつかずに告げられた言葉。
「クリエイターとしてのあなた達に、私はとても期待していましたよ。…今更ですが」
過去形かよ、と笑ってみせれば、これは失礼、と苦笑する。
「あなた達の活躍、楽しみにしています」
―移動先が決まったら、また改めてご連絡します。
夜。
オラクルがふいに目を覚ます。
家中の電気をつけ、テレビもラジオもオーディオも、音の出るもの全てつけて、部屋の隅で泣き疲れるまで震えている。
膝を抱え、クロゼットに凭れて眠るのを抱き上げた瞬間、オラクルは眼を見開く。
驚愕と恐怖に染まった瞳を知りながら、それでもどうにかベッドに降ろすと、離せとオラクルの手に突き飛ばされる。
けれど、呼吸さえ上手く出来ずに泣く人に、一体何を云えというのか。
一度殺してしまったと思った魂の一部が、復活を求めて蠢き出す。
目を叛け続けた傷から、誤魔化しつづけた傷から血が噴き出して、
その存在を主張している。
この傷を見ろ、認めろ、その喪失を、痛みを思い出せ、と。
上がりかけた悲鳴を、けれど噛殺すことしかオラクルは知らない。
オラクルが、不思議そうに右手首の傷を眺めているとき、悪夢に怯え飛び起きた夜に、どうしていいかわからなくなる。
オラトリオはもう、オラクルが泣いているときに抱きしめてやることが出来ない。
オラクルはもう、誰かと触れ合うことが出来ない。
温かなそれらを奪ったのは自分だと、震える細い肩を見るたびに思い知らされる。
彼に縋りついて許しを請いたいと思わないわけではないけれど。
強張った身体を自らの腕で固く抱き締めて、俯いたままごめんねと呟く彼に、お前は悪くないと囁くことしか出来ない。
愛していたとさえ、愛しているとさえ告げられずに。
傷ついたままの彼を、愛していくしかない。
二度と受け入れられることは無いと、はじめに裏切ったのは自分だと、そう、知っているから。解かっているから。望んだりは、しないから。
泣かないでと、そう願うことすら出来ない。
それでも。
傍に在ることを許されていることを、何よりの幸せだと思うのだ。
もう一度信じても大丈夫かと、無意識に探るような/縋るような眼をする人に、辛抱強く何度も大丈夫だと返す。
もう、間違えたりしないから。離れたりしないから。
だから、どうかと。
祈ることだけがやめられない。
どうか、もう一度信じて――。
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