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   ぎゅぅいおぉ…ん…

風が通り抜けたような機械が吼えたような、何とも居心地の悪い奇怪な音がしてオラクルはシャワーを止めた。思い出したように響くその音は、恐らく近くの建設中の総合病院からの音だろう。聳え立つ大きな機械類の、細く長い鉄骨とその先に点けられたランプを思い出す。夜の中で赤い眼を光らせる怪物のようだと思った。するりとそんな絵が浮かび上がってきて、覚えていれば今度描いてみようかと思った。あくまで、覚えていればだが。
ほとほとと水を滴らせる髪をかきあげて頬を拭う。浴槽にたっぷりと張った温かな湯に身体を浸すと、満足の吐息が唇から零れた。
少し熱めの湯が彼には好みで、そもそも入浴という行為が好きだ。父方の従兄弟はそれをじじむさいと笑い、母方の従兄弟はいい趣味だと笑う。悪意のこもらないその笑い方から、オラクルはそれを良い事なのだと了承している。
真夏の熱に滲んだ汗を落とすだけならシャワーだけで十分だが、食事や睡眠に匹敵する快楽はやはりそれだけでは得られない。
適温の湯の中で、オラクルは伸びをした。
(今日はたくさん歩いたから)
頼まれていた絵を完成させ、画材屋に寄るついでに直に編集部に届けてきた。午後の遅くに着いたとき、丁度忙しい時間と重なってしまったらしく、珈琲を供してくれたオラクル(とオラトリオ)の担当編集者はすまなそうに眦を下げた。
編集部の珈琲は、つくり置きされているため香が飛んで苦味が強い。普段紅茶や珈琲なんかの嗜好品の好みに五月蝿いクオータが、編集部の珈琲をけろりとした顔で口にしているのを見ると不思議になる程だ。気持ちのままにオラクルに問われ、彼は「アレはガソリンみたいなものですから」と苦笑交じりに答えことがある(ちなみに趣味で飲む珈琲は整備油みたいなものらしい)。
だけど、オラクルは割合とそれが気に入っていた。何となく、「特別な味」がする。
熱過ぎるそれの湯気越しに見る皆の様子は、忙しい忙しいと口にしながらも活気があっていいと思う。笑顔ばかりという訳でもない。けれど、適度な緊張感の底の方には、快さが滲んでいる気がしてならない。楽しそうだ、なんて云ったことはないけれど。
舌の上に思い出すあの味。
それは必ず、あの部屋の空気や音や雰囲気や、雑多な記憶を伴っている。

ぱしゃん。

腕を上げれば水音が響く。その音がもっと聞きたくて、オラクルは水面を叩いた。
ぱしゃんぱしゃんぱしゃん。
それは奇妙に楽しく、くつくつとオラクルは笑った。伸ばした腕の、ぴんと立てた指先を見詰めたままで、眼元ぎりぎりまで沈み込む。楽しい。
熱い湯をかき混ぜて掬い上げて皮膚の上を流れる感覚をまた楽しんで、真新しい水の中に生まれた水泡が弾けるしゃらしゃらという音を聴く。楽しい、けれど、身体の方は大分火照ってきていて限界らしい。
ばしゃん、と一際大きな音を響かせて湯から出る。
最後に冷たいに近いくらいの温めのシャワーを浴びてオラクルはバスルームを後にした。



肌触りのいい夜着。クーラーをかけておいた部屋。冷たい水。
風呂上りにこれだけあったら幸せだろうとオラクルは思う。団扇もあったら最高だ(彼の愛用は、数年前の「納涼盆踊り大会」仕様だったりする。何がいいって、手にしっくりと馴染む持ち手の感触が最高にイイ)。
扇風機もいいよな、とは思うものの、部屋に物を増やすことに抵抗を感じて結局毎年買い逃している。だが、夏とは暑いものだというのが意見の合わないことの多いオラクルの従兄弟達の、珍しく合致した持論だから、特にオラトリオの家なんかではクーラーより扇風機のほうが夏の主役だ。風呂上りの年少組みが扇風機を堪能しているところなぞに出くわすと、妙に夏だなぁという気がしてくるから不思議だ。あー―とかわわー―とか扇風機に向かって発声してはおかしな声になるのを楽しんでいるシグナルとちびを、可愛いなぁと思ってみていたら、それを見遣るパルスが「ガキめ」とでも云いそうな顔をしていてるものだからその彼が小さい頃同じ遊びをしていたことを思い出して、思わず吹き出してしまったことがある。あの家の人間は何だってあんなに可愛いのかと、思い出すと何だか幸せな気持ちだ。
くつろぐときの定位置のソファには、買ってきたばかりの画材屋の紙袋がある。茶色のがさがさした質感の厚手の紙に瀟洒に意匠化された店名の印刷。無造作に置いたそれは、まるで主人のようにどっしりと居座っているように見える。ミネラルウォーターのグラスを片手に、はたはたと蜻蛉柄の団扇をはためかせながらオラクルはその隣を選ぶようにして座った。
一旦グラスを手放して、ソファに沈み込む身体を支える。
指先に、こつ、と何かが当った
ソファの上に放り出されていた携帯電話だ。先ほどまで紙袋の陰に隠れていたらしいそれを手に取ると、りぃぃん、と軽やかに鈴が鳴った。
銀の鈴と蒼いビーズを組み合わせ、アクセサリ用の丈夫な紐で繋いだストラップはエモーションのお手製だ。涼しげな様が白い機体によく合っていると思う。きゃらきゃらと笑いながらオラクルの携帯電話を飾りつける少女を思い出し、ついでにそれを見遣って確かに溜息をついていたオラトリオを思い出した(彼の脳裏にラヴェンダーの姿があったろうことは想像に難くない)。オラトリオの方は携帯電話へのデコレーションの申し出を丁重に断ったから、彼の黒い携帯には今でもオラクルが選んだシンプルな革のストラップがついている。ビーズとオラトリオの組み合わせをちょっと見てみたい気がして少し残念だったけど、自分が選んだものをそれなりに気に入って使ってくれてるんだなと分かるからそれはそれで少し嬉しい。
表に付けられた小さなディスプレイから特に着信のないことを確認して、折りたたみ式のそれを開く。ぱくん、と音がして液晶の画面が現れた。
別に何をしようというでもなく、2・3度ぱくんぱくんと開閉を繰り返すと、そのたびにりぃんりぃんと鈴が鳴る。
  りぃぃん。
何をするともなしにボタンに触れる。
玩ぶように幾つかを押して、結局呼び出したのは見慣れた番号。
別に用件はない。特別なことは何も。
ただ何となく、掛けてみたくなっただけ。
五つコールが鳴って出なければ忘れようと決めて、最後のボタンを押した。
(とぅるるる)一つ。
(とぅるるる)二つ。
(とぅるるる)三つ。
ふぃ、と音が途切れて。

「どうした?」

声が、飛び込んできた。
「用はない」
思わず咄嗟にきっぱりと云い切って、それから漸くしまったと思う。余りにもにべもない。何となく出ないような気がして、五つ数えたらそのまま切るつもりでいたから、驚いて本音が出た。理由の一つだって考えてたわけではなかったけれど。
相手も一瞬絶句した様子で、しかしそこは流石に付き合いの長い相手。切り返しはすぐに来た。
「…そーかーそんなに俺の声が聞きたかったかー、さびしがりやだなーオラクル君わー」
口調が妙に平坦で音が平仮名くさい。素敵に素直に微妙に腹の立つ逆襲だなぁ、とオラクルは感嘆する(他の誰かが聞けば、何とまぁ子供じみた真似をすると呆れたかもしれないが、耳にするたった一人はそう思わないらしい)。これは自分も斜め45度を駆け抜けねばなるまいとオラクルは心を定める。
「まぁ程ほどには。でもそういう発想が出てくるってことはもしかしたら寂しかったのはお前のほうか?」
わざとゆっくり、芝居がかった言い方をしてみる。けれど、言う端から押さえ損ねた笑いが零れて。
吹き出したのはほとんど同時。はは、と軽い笑い声が互いの耳を打つ。馬ッ鹿じゃねぇのと笑みを含んだままオラトリオが云い、お互い様だろとオラクルが返した。
それから、締め切りは終わったのかとかお前こそどうなんだとか編集部の珈琲は相変わらずの味だったとかシグナルに味噌汁を仕込んだから今度飯でも食いに来いとか、幾つか適当なやり取りを重ねて、そしてふいにオラクルが「あ」と声を上げた。
「そういえば、お腹空いたなぁ。ご飯食べるの忘れてた」
「食え。忘れすに食え。食わんと俺が食わせに行くぞ」
「今からうちに来て?ご苦労だね」
「おうよ。今からでも買い物行って飯作って、お前が嫌だっつっても残させねーからな。全部食わす!」
くくっとオラトリオが笑う。オラトリオの手料理は久しぶりで、一瞬それもいいなぁと思うものの、どうも高く付きそうな気がして思い直す。
それなりに一人暮らしの長いオラクルにとって、家事自体は別段負担ではないし料理も割りと好きなほうだ。作った食事より作ってもらった食事の方が美味しいとは思うけれど(誰かのために作るのはまた別だ。美味しいと笑ってくれるのが嬉しいから)。
「その申し出は謹んで辞退させていただくよ」
おや残念、と嘯く声が、オラクルに己の判断の正しさを確信させた。
「しかし、お前ちゃんと部屋に食うもんあるのか?」
オラトリオが多忙なとき音井家の主夫代行をオラクルが頼まれるのがいつものこと。頼まれたことはきっちりやるオラクルだが、自分自身のことに関しては杜撰というか少々適当に過ぎるところがある。「んー」と生返事をして、オラクルは少し考えた。少しだけ。そしてすぐに考えるのを止める。
完全に空っぽだったような気はしないが、よく覚えていない。
「どうだったかな?」
とりあえずソファと別れてキッチンへ。何もなければ近くのコンビニにでも出かけよう、夜の散歩もいいものだよな、などと(何となく怒られそうだから)口には出さず考えて、携帯電話を肩と首で挟み冷蔵庫を開ける。意外にも、どうにかなりそうな感じだ。
「え、とね。」
ああこんなのがあったと読み上げるように冷蔵庫の中身を云うと、じゃあこんなのはどうだと次々とレシピが飛び出してきた。流石主夫、といったところか。聞くうちに楽しくなって、オラクルは手を叩きたい気分になる。いいね、と相槌を入れる声は弾んでいて、そうだろうと返ってくる声は得意げだ。こんなのはどうかとかそれもいいんじゃねぇかとか何だかんだと云い合ううちに、わくわくしてくる。
それじゃあまたねと云って電話を切る頃には、1週間くらいはメニューに困ることはなさそうなくらいになっていた。ごく簡単に試せるレシピも色々あって、ああこれなら自分もしばらく真面目に食べるだろうなと(他人事のように)考えてオラクルは一つ頷いた。
携帯電話を放り出して、鼻唄でも歌いだしそうな勢いでレンジの火を点ける。
一人でものを考えるときの、静かでゆったりした時間も好きだけど。
誰かのくれる”楽しい”もやっぱり好きだ。
今夜お腹一杯になってからぴかぴかのシーツに包まって見る夢は、多分、きっと、いい夢だろうと思った。




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多分この後オラクルさんはお腹一杯になってからマットとリネンに拘ったふかふかのベッドで今日の幸せとか明日の楽しいとか考えながら眠りにつくかと思われます。もちろんシーツは洗いたて。
…何て羨ましい(笑)
BBSにて、2005.8.5〜2005.8.17の期間ほぼ日刊で書いていました。