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「そろそろ休まないか」
平行して展開していた幾つかのウィンドウを閉じて、オラクルは同じく熱心に資料を睨んでいたオラトリオに声をかけた。
ああ、いいなと云って指先で撫でるようにしてウィンドウを閉じたオラトリオが、オラクルと目線を合わせるようにしてちょっと笑う。
「お茶の用意をしてくるよ」
何だか嬉しくなって、席を立ったオラクルは何がいい?と尋ねるついでに、オラトリオの唇にキスをした。
掠めるように離れた口付けに、呆けたようにぱかんと口を開けたオラトリオが、眼を泳がせながらまかせるよ、と伝える。
まるで子供に対してするように、オラクルが待っていて、とオラトリオの金色の髪を一撫でする。自分のものと違うその色を、オラクルはきらきらしてとても綺麗だといつも思う。そして二人で何を飲もうか、お茶請けは何にしようかと考えると、楽しくて仕方ない。



オラクルはよくそういうことをする。何かのついでのようにオラトリオに触れたがる。その全てがオラクルにとって特別で、けれど自然な行為であることを知っていたから、オラトリオは何も言わなかった。必要なのだ、と思っていた。
子供が親に抱き上げてもらいたがるようなものだ。髪を撫でて眼を細めるのと同じ。
べたべたするのは嫌いなのだと、差し出された手を振り払った自分の言葉を真に受けて、少しの接触もしなかった頃には、思っても見なかったことだけれど。
以前、触っていいかと聞かれた。妙に生真面目な顔で、口調だった。
奇妙な申し出に眼を丸くするオラトリオに、指とか少し貸してくれると嬉しい、とオラクルは控えめに付け足した。
それが、一番はじめ。
手袋のままの片手を差し出せば、一回り小さな手に包み込まれた。壊れ物を扱うような慎重さと、世界一高価な贈り物を受け取る人のような丁重さで。オラトリオ自身も、つられて何だか難しい問題にあたった研究者みたいな顔をしていた。
降りてきた沈黙に困って、手袋をとったほうがいいかと尋ねたら、弾かれたように顔を上げた。その驚きようにまた驚いてしまった。
本当にいいの、と重ねて聞いてくる相手に、ただ頷いて見せれば、こんどはクリスマスプレゼントを見つけた子供のような顔になる。
その一つ一つが忘れられない。
苛立った自分の言葉を、訂正するのには時間と言葉とが必要だった。コレは普通の女性に使うなら最早口説きだ――と頭を抱えたくなるような台詞を何度も使い、相棒を納得させて。そうしてしばらくする頃には否応なしに気付かされていた。
自分の側に、特別な感情があること。そして彼の側に同じ物が見当たらないこと。
彼が触れると、心拍が上がる。集中力が途切れる。思考が散漫になる。
けれど彼は書類整理の合間にオラトリオに口付け、そのまま書庫に消え仕事の続きをする。――否、中断などそもそもしていないのかもしれない。
触れる、という行為に見出す意義もその目的も、彼と自分では違うのだ。もっと触れたい、と言う欲求とオラトリオは戦っている。
もっと、もっというそれには際限が無い様に思え、余りの異質さに愕然とする。


詰めていた息をゆっくりと吐き出すような、長い溜息を聞いて振り向くと、オラトリオがソファに沈み込んでいくところが見えた。
白い手袋をしたままの手で顔を押さえ、ずるずると身体を滑らせていく。
とても疲れているように見えた。
特別丁寧にミルクティを入れて、甘いお菓子を添えて出すのがいいだろうか。人と違う身では、気休め程度にしかならないだろうけど。気休めにでも、なるならそれでいい。



気にするな、と心の中でオラトリオは何度も呟く。
オラクルのそれは、よく馴れた仔犬や仔猫がその鼻先を押し付けてくるようなものだ。母親の乳を探してその腹をつつきまわすような無心さで。
ただそこに見出す意味合いが自分とは違うだけ。
彼の持つ意味と自分の持つ意味は違うのだと、それだけのこと。
だから気にするな。
擬似の心拍が上がるのも血流が増加するのもひたすら煩わしい。
自分以外にはするなよと彼には既に申し渡してある。人目のあるときは駄目だとも。
けれど、その頃にはまだオラトリオ自身、オラクルに触れられたときの妙な落ち着かなさに、名前をつけられていなかったのだ。
心底不思議そうに何故と尋ねるオラクルに、少しの沈黙を挟んでようやく伝えられたのは、ただそれがオラトリオの我侭なのだということだった。
分かったような分からないような、おそらく分かった振りをしてオラクルはそうかと頷いて、オラトリオの髪に手を伸ばして撫ぜた。
そうしながらもう一つそうかと呟いて、今度は破顔した。そうかお前の我侭かと嬉しそうに幾度か繰り返しながら髪を撫ぜ、最後に前髪を軽く引っ張ってからようやく手を離したオラクルに、そうだよ俺の我侭だよとオラトリオは苦笑してみせた。
如何にも上機嫌な様子のノイズを流しながらも、仕方ないなと真面目そうな顔で応じるオラクルを、今度はオラトリオから抱き締めた。倒れこむ拍子に、わぁと驚いて軽い悲鳴をあげたあと、珍しく声を立てて笑うオラクルの肩が揺れるのが伝わって、オラトリオも笑った。
そういうことが、あった。
そうして今も、それは続いている。


甘い香が漂う。
拘りはじめたらしい紅茶と、馬鹿みたいに甘い菓子とに、馬鹿みたいに甘い笑顔もおまけにつけてきっとオラクルは戻ってくるだろうから。
しょうがねぇなと苦笑して、オラトリオは凭れていたソファから背を離す。
くしゃりと前髪をかき乱すところに、オラクルのお待たせという声がかかる。白絹を纏った指の間から見る顔は、果たしてオラトリオの思った通り、甘やかに笑んでいた。




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