back






オラトリオには、一般的な従兄弟の関係よりは自分達は親密に過ぎるという自覚 はある。
性に違いがあるから、なおさらだ。
いっそ兄弟よりも警戒心のない関係。
食事の後、オラクルをマンションまで送るのはオラトリオの役目だ。
信頼と受け取ればいいのか、従兄弟の家は合鍵さえ預かっている。
けれど。…単に男と認められていないだけかもな、とオラトリオは自嘲した。

オラクルの無防備さはときにオラトリオを驚愕させる。いつだったかなど、風呂 上りに大きなシャツを羽織っただけの格好で出迎えられ、欲情するよりも先に唖然と してしまった。頭を抱えながら理由を問いただせば、あっけらかんとコーヒーを零してしまったからパジャマがないんだ、とのたまったもので。
ああそう火傷しねぇようになと溜息をつく以外、オラトリオに一体何が出来ただろう。無論自分がいる間何か着ていてもらうように依頼もしたが。それでも不思議そうに首を傾げていたあたり、問題意識がなさ過ぎる、と言わざるをえまい。

明け方だろうと夜中だろうと電話一本で――ときには無断で押しかけて――あらわれるオラトリオにも問題はあるのだろうが。
歳が同じで、よく似ていて、いつも一緒だった。そんな育ち方も大きく影響して いるのかもしれない。
それが嫌になったようなこともあるけれど。
とにかく二人だった。ずっと隣にいた。
今も、昔も。
これからは、分からないけれども。



お茶を入れてくるから、と細い背中がキッチンに消えるのを見送って、オラトリオはソファに腰を下ろした。
無駄なもののない、いっそ殺風景に見えてもおかしくないような室内がそれでも暖かく好ましく見えるのは、ここがオラクルの家だからか。
オラクルの色彩感覚や感性が反映され趣味良く整えられた様も、理由にあるだろうが、入り浸るオラトリオにとっても家に近いことも大きい。もうとうの昔に馴染んでしまっている。
さて、とオラトリオは、収納されている灰皿を探した。置き場なぞは、それこそ勝手知ったる、である。

そんなときに、それが目に付いたのはまったくの偶然だった。
部屋の端にちょこんと。目立ってはいないがいつもならそんなところにそんなものはない、小箱。
あの箱。見覚えのある箱だ。
色をつけずに木目を活かした木彫りは、いつだったかのオラトリオの土産だ。中 はアクセサリーを入れられるようになっていてオラクルが使ってくれているのが嬉し かった。

何気なく開けてみれば、やはり見覚えのある耳飾やネックレスが綺麗に収められ ている。数こそ少ないが、シンプルで品のいいデザインがオラクルらしかった。
ふ、とその中の一つがオラトリオの目に留まる。
はげかけた金のメッキのいかにも安っぽい指輪。台座に紅い石に似せたプラステ ィックを載せたそれは、大きさを見るまでもなく子供用の玩具の指輪だ。…何故、こんなものが、ここに?
思わずしげしげと箱を覗いていると、
「何、勝手に見てるんだ!」
常にない勢いで、オラトリオの手から箱が奪い取られた。
箱を閉めて、オラクルがばっと大事そうにその箱を抱きかかえる。
「…盗りゃしねぇよ」
あんまりといえばあんまりなその態度に些か傷つきながらオラトリオが不満げに洩らす。
「違…そうじゃない」
俯いてオラクルが口ごもる。
きゅ、と箱を一際強く抱きしめるようにすると、目線を逸らせたまま溜息をついた。



いや、呼吸を詰めたのを、緊張を解いて息を吐いた、というのが正しい。
抱え込んだ腕はそのままに、すっと顔を上げる。そうやって微笑んだのは、もういつものオラクルのように見えた。
「ごめん。お前は悪くないよ」
頬の上の辺りが微かに赤い。
白い肌に血を透かせた様が、つい今しがたの不愉快も忘れ、ああ、綺麗だな、という感慨をオラトリオにもたらした。
触ってみたい。
そう、思ってしまうほど。
手を伸ばして、親指でそっと目元をなぞる。それを受けて、オラクルは大人しくされるに任せた。
その、まるで恋人を受け入れるような態度。

しかし、その表情がこう言うのだ。曰く“オラトリオ、何してるの?”
これだよ、と溜息をついてオラトリオは手を下ろした。これだから世間知らずの天然は、と愚痴もこぼしたくなる。
そんなに子供のように大きな瞳で真っ直ぐに見られたら、気が咎めてキスの一つもできないではないか。
「そんなら、いいけどよ」
思わず言ってしまってから、テーブルに眼を落とす、と。
…いいや、全然よくねぇ。

悲鳴に近い声で音は掻き消されていたけれど、テーブルに置かれたとき、相当乱暴に扱ったのだろうか。用意された紅茶がカップから少し零れていて、オラクルの慌てぶりを示していた。カップの中の表面も、かなり激しく揺れている。
何か、見られたくないものでも入っていたのだろうか。
オラクルが、こんなにも慌てるほどの。
オラトリオに思い当たるのは一つだ。
大人の女が身を飾るのに相応しい装飾品の中に、異色のものがひとつ。
「…指輪」
箱を片付けるためにか、早速寝室に向けていた足をぴたりと止めてオラクルが振り向く。
人形のように、先程よりもますます大きく眼を開いてオラトリオを見た。
「子供用の玩具のやつ…入れてるだろ」
引っかかる。
ただの違和感ではない。
かりかりと脳裏を引っかくような、軽い苛立ちを伴ったその感覚。
言いながらオラトリオは、何故か酷く緊張していた。
オラクルの表情は変わらない。オラトリオの、次の発言を待っている。
ありふれた玩具の指輪。菓子におまけでついてきても、夜店で売られていてもおかしくない。
何処で見掛けていてもおかしくないそれが、こんなに気になるのは何故だ?
…急に酷く咽喉が渇いていることを自覚する。今、紅茶を飲んではいけないだろうか。
何も間違ってはいけない気がして、オラトリオはごくりと唾を飲んだ。
言葉の続かないオラトリオに、急にオラクルの投げる視線が細くなる。
静かな表情。
普段の表情の枠から外れたそれは、本気の怒りを示すことをオラトリオは知っていた。
…やべぇ。
「わからないなら、いいよ」
冷めた声が告げて、オラトリオを置いていこうとする。
長い髪がさら、と靡いた。
「待て!」




見られた、と思った。
ちびにお嫁さんになってと言われて、小さい頃にそんなことを言った子供がいたのを思い出した。
大事にしていた、一番の約束。
懐かしい記憶。決めていた。
家を出るまで…会うぎりぎりまで眺めていた、そのこと自体をを見られたような気がした。
憶えてなんかいないと思っていたし、事実そうだったけれど
。 そのこと自体は、本当にどうでもいいのだけれど。
思い、出さなかった。…そのことに腹が立つ。
紅い指輪。古い指輪。今度こそ捨ててやろうかっ!
かっとした衝動が込み上げたところで、後ろから腕を引かれた。
急にかけられた強い力に、オラクルがバランスを崩してよろめく。
その躯を支えたのはオラトリオのたくましい体だった。
何するんだと、抗議の声を上げかけたのに。
「それ…俺がやったやつだろ」
抱きしめるように腕を廻して。耳元でそう囁くから。
オラクルは思わず言葉を飲み込んでしまった。
「ガキの頃の。それなりに必死で口説いたんだっけ」
なぁ、俺が一番だったのか?と。
強気に笑うその奥に、けれど上手に微かに不安を隠した声。
教えてくれよ、をその声がとせがんでくる。
諦めたように、ふっとオラクルは体の力を抜いた。
オラトリオに自然もたれかかるようになって、漂う空気が甘さを帯びる。
ゆっくりとした動作で振り向いて、視線を合わせる。
オラクルの澄んだヘイゼルの瞳。長い睫毛の影を受けて、陽の光を受けて豊かに表情を変えるそれは、いつだって真っ直ぐにオラトリオの暁の瞳を射抜く。
そうしてにっこりと、三日月を生むように、オラクルの唇が、眼が、笑みを形作る。



鮮やかに、艶やかに、優雅に。
有り得ないほどに、これ以上ないほどに極上の微笑み。
それを浮かべたまま、鈴を鳴らすように楽しげな声でオラクルは答えた。
「教えて、あげない」
「………っ、何だよそれぇ!」
あまりのことに一瞬絶句してオラトリオが叫ぶ。
あはははは、と笑って、ちびにするような手つきで優しくオラトリオの髪を撫ぜると、今度こそ小箱を片付けるためオラクルは踵を返した。
…まるで踊るような足取りで。
後には、がっくりと項垂れたオラトリオだけが残された。










back