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泣いている人がいる。
暗い暗い世界に、ぽつりと取り残されるようにして蹲っている。
俯いたその表情は見えないはずなのに、何故か泣いていると分かった。
(ああ、これは夢だから)
ちりちりと色の移ろう髪。同色の裾の長い衣装。
黒い背景に、切り取られたように鮮やかな姿で其処に在る。
細く伸びやかなシルエットは成人のそれであるのに、何故かその人が泣いていることを奇異には思わなかった。ただ泣かないでと想う気持ちが溢れる。
膝の上に組み置かれた白い手が、祈るように組みなおされてその人が上体を折る。そのまま崩れてしまいそうに見えてオラトリオは慌てた。
夢特有の浮遊感が彼をその人の傍へと押し流す。
どうしたのかと、何があったのかと案じ問いかける気持ち。それは確かにあったが、それがその人に伝わるとは思ってもみなかった。
けれど、その人は顔をあげた。

息が止まりそうなくらいに鮮やかな。
真っ直ぐな目線が、まるで射抜くようにオラトリオのそれを絡め取る。
濡れた瞳はその髪と同じ色彩。
白磁のような頬を伝った涙が、光を弾く。
薄く形良い唇が開く。
微かに震える吐息を見守って、その声を待った。
そうして。
その咽喉が生み出す心地よい響きも。くっきりとオラトリオの心に焼き付く逸らされない瞳も。
「お前、が、いないんだ…」
確かに、知っていると思った。





目を覚ましたとき、オラトリオは泣いていた。
身に覚えのない涙がするするとこめかみを伝っていく。
透明な、けれど切るように痛い哀しさが体中を満たしてとうとう溢れ出てしまったように。
何故哀しいのか分からない。
何か夢は見たと思うけれど、ただ見たという記憶と哀しさだけが残っていた。その記憶も瞬く間に不鮮明になっていき、確かに見たのかどうかも危うくなっていく。
ほろ、と零れた最後の一滴を拭って、オラトリオは身体を起こした。
泊まりに来た親しい従兄弟の家の客間で、姉と共に布団を並べて寝かされていた。小さな弟たちと両親は2人を置いて帰ってしまっている。
恐る恐る伺うと、中学生になったばかりの一つ年上の姉は、起きているときよりもずっと柔らかな表情で眠りについていた。
いつもこんな優しい顔をしていてくれればいいのにとつい考えてしまいながらも、泣いていたことを気取られる心配がないことに安堵する。
身動くのに併せて、きし、と小さな音が立つのを気にしながらオラトリオはその部屋を出た。

廊下にある広い窓から月が見える。
冷めた空気が辺りを満たして、隔たりとしてある硝子の存在を感じさせないほどだ。
しんとした夜に蒼い光を惜しげもなく注ぐ月は、誰に見られることも期待せず光の腕を伸ばし夜闇を照らしている。世界中で起きているのは自分ひとりではないのかと思えるほどの静寂が、先ほどの夢の名残を反響させた。
胸の中に浮かび上がる、哀しいという気持ち。
それは 、オラトリオのものではない。深く切り込んできた夢の欠片が、まるで氷が水になるように彼の中で溶け出してしまったものだ。
胸の中に広がるその気持ちに心を寄せれば、一つ浮かび上がる顔がある。
よく似た顔をした、同い年の従兄弟。
彼の部屋はオラトリオたちの寝かされていた部屋のすぐ近くにあって、その人は其処でもう眠っていることだろう。遅くまでゲームをしたがったオラトリオと違って、彼はもっとずっと小さい子供のように睡眠を欲しがる性質だ。正確に時間は知らないけれど、大人さえ眠っているようなこんな時間に彼が起きている筈もない。
けれど。
どうしても、今、その顔が見たい。


闇の落ちた部屋で、やはり彼は眠っていた。
月明かりに慣れた瞳にその表情は見えないけれど、すこやかな寝息から少なくとも泣いてはいないと、そう分かった。
オラクルのベッドの側に座り込み、布団の上で組んだ腕の上に更に顔を乗せる。ぺたりと頬を預けて、ぼんやりと目の前にある顔を見た。
同じだとよく言われるその顔は、オラトリオにとっては見慣れすぎてしまって同じかどうかはよく分からない。
色だって違うし、何より質が違う。
柔らかそうな頬の線や、穏やかな表情を作る眉や目元は、オラトリオには持ち得ない(と、オラトリオは思っている)。
刻み込まれた違いのひとつひとつは、他人が言うほど些細な物には思えなかった。
ぼんやりと眺めるうち、一度去ったはずの睡魔がまたとろとろとオラトリオを眠りの世界へ誘おうとやってきた。
部屋に戻らなければと考えながらも、体が動かない。否、体を動かそうとすることが出来ない。
とろとろ、とろとろと。オラクルの健やかな寝息を聞きながら、オラトリオもまた眠りに落ちた。




夜半、ふとオラクルは眼を覚ます。
何かに呼ばれたような、気がかりな事を思い出したような。大きな掌に意識を掬い上げられたような。突然ぽっかりと浮上するような覚醒に驚いて、オラクルは眼を開けた。
そうして、もう一度驚く。
「…お前が呼んだのかい?オラトリオ…」
丁度目の前に、泊まりに来た従兄弟の顔。別の部屋で、寝ているはずの。
瞼を閉じ静かに呼吸する様子は、眠っているらしいと容易に分かったけれど。
そっと身体を起こして、もう一度呼びかける。
「オラトリオ?」
身動きひとつしない従兄弟はベッドの側に座り込んだままの姿で、特に何か羽織っているわけでもない。冷たい夜気に、オラクルはふるりと身体を震わせた。
よく眠っているらしい相手を起こすのは忍びないけれど、そのままにしておくわけにもいかないと、軽くその肩を揺さぶる。
「オラトリオ、寝るならベッドにおいでよ、風邪をひくよ?」
微かな呻き声が聞こえて、不快そうに眉根が寄る。起きるかと思ったけれど。
揺するのを止めた途端、穏やかな寝顔に戻ってしまった従兄弟に、オラクルは一つ溜息をついた。遠慮がちに少しつついたくらいでは届かないくらい、従兄弟は眠りの世界の深い場所にいるらしい。
しょうがないね、まぁいいか…そんな苦笑を零して、オラクルはベッドを降りる。
本当なら暖かいベッドに引き摺りあげてやりたいところだけど。
「一晩くらい、我慢してくれ」
掛け布団の1枚を床に敷き、自分より常に一回り大きな身体を(悔しいことに、オラクルの身長が伸びるのと同じペースでオラトリオも伸びるのだ)引き倒して転がした。
多少扱いは乱暴になってしまったけれど、それでもオラトリオに起きる気配はない。…起きたところで、さほど腕力のないオラクルにとっては許せとしか言いようがないけれど。
そしてもう1枚を上掛けにして、一緒に包まった。少し寒いかもしれないけれど、2人なら、多分大丈夫だろう。
オラトリオの身体はすっかり冷たくなってしまっていて、一体何時この部屋に来たのか不思議になる。暖かさを求めてオラクルの方へと身を寄せてくるのにくすくすと笑いを零して、
「お休み、オラトリオ」
オラクルもまた睡魔に身を委ねた。





声が聞こえる。
自分を呼ぶ声。
繰り返されるその声が、自分はとても好きだ。
暖かさや優しさや安堵や、世界中の善きもの全てを与えてくれるような声。
夢現のうちに、大丈夫、と返した声は言葉になっただろうか。届いただろうか。
大丈夫、信じているよと。
――――もう絶対に、一人になんてしやしないから――
低く響く、まだ聞いたことのないその声を、オラクルは確かに知っていると思った。







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書きたかったのは確か一つ布団で眠る御子2人。書くには書きましたが、何だか随分遠くに来たような(がくり)。それから冒頭の夢の中で泣くオラクル。実際に電脳のオラクルに「泣く」とういう行為が可能かどうかは知りませんけどね。